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大阪地方裁判所 昭和56年(ワ)1729号 判決

原告

小田寿男

ほか二名

被告

加藤博士

ほか一名

主文

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は、原告らの負担とする。

事実

第一申立

一  原告ら

1  被告らは、原告小田良子に対し各自六六六万六六六六円、原告小田寿男に対し各自四四四万四四四四円、原告小田泰代に対し各自四四四万四四四四円、原告小田啓介に対し各自四四四万四四四四円及びこれらに対する昭和五五年六月一五日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  被告ら

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

3  仮執行免脱宣言

第二主張

一  請求原因

1  本件事故

(一) 日時 昭和五五年六月一四日午前七時五九分ころ

(二) 場所 八尾市北木の本五丁目七一番地先交差点

(三) 事故車

(1) 大型乗用車自動車(大阪二あ八六五八、以下被告車という)

運転者 被告加藤博士(以下被告加藤という)

(2) 原動機付自転車(大阪市平あ六六一九、以下小田車という)

運転者 小田豊(以下豊という)

(四) 態様 南進中の被告車と西より南へ右折中の小田車が接触し、小田車が転倒して、豊が被告車の後輪で轢過されたもの

2  帰責事由

(一) 被告加藤(民法七〇九条)

被告加藤は被告車を運転し時速約三〇キロメートルで南進中、現場交差点の手前約五〇メートルで対面信号表示が青から黄に変つたにもかかわらず、何ら減速することなく直進し、右交差点手前の停止線の手前約六メートルで右信号が黄から赤になつたのに、むしろ加速して交差点に進入し、前側方注視も欠き、交差道路西から青信号で進入右折中の豊運転の小田車に接触し転倒させて同人を轢過した。

(二) 被告近畿日本鉄道株式会社(以下単に被告会社という、自賠法三条、民法七一五条一項)

被告会社は被告車を保有する運行供用者であり、また、被告加藤の使用者であり、本件事故はその業務従事中の事故である。

3  損害

(一) 死亡

豊は本件事故の際被告車後輪に頭部を轢過されて即死した。

(二) 得べかりし将来の利益の損失

豊は株式会社タミヤの専務取締役で、本件事故当時の年齢四六歳、年収四三二万四五八〇円、その就労可能年数は六七歳までとして二一年間、これに対応する新ホフマン係数は一四・一〇四、生活費控除は三〇パーセントが相当として、その逸失利益は四二六九万五七一三円となる。

(三) 慰藉料 一五〇〇万円

一瞬にして一家の主柱を失つた豊の妻である原告小田良子は、長男の原告小田寿男(一七歳)、長女の原告小田泰代(一四歳)、二男の原告小田啓介(八歳)の三児を抱え路頭に迷うことになつた。とりわけ悲惨のきわみは、長女の原告小田泰代が幼児より植物人間の状態で、常時介護を欠くことができないことである。

(四) 葬祭費 七〇万円

(五) 弁護士費用 三〇〇万円

(六) 合計 六一三九万五七一三円

4  権利の承継

豊の死亡により、妻原告小田良子(相続分三分の一)、長男の原告小田寿男(同九分の二)、長女の原告小田泰代(同九分の二)、二男の原告小田啓介(同九分の二)が相続し、権利義務一切を承継した。

5  損害の填補 二〇〇〇万円

原告らは、前記損害金のうち、自賠責より二〇〇〇万円の支払を受けた。

6  結論

よつて、前記損害金合計から填補額を控除した残額のうち二〇〇〇万円について、被告らに対し、相続分に応じて原告小田良子は各自六六六万六六六六円、原告小田寿男は各自四四四万四四四四円、原告小田泰代は各自四四四万四四四四円、原告小田啓介は各自四四四万四四四四円、及びこれらに対する本件事故の翌日である昭和五五年六月一五日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1は認める。

2  同2(一)は否認し、(二)のうち、被告会社が被告車を保有し、被告加藤の使用者であることは認め、その余は争う。

3  同3(一)は認め、(二)ないし(六)は否認する。

4  同4は否認する。

5  同5は認める。

三  抗弁

1  免責

本件事故は、豊の一方的かつ重大な過失に帰因し、被告らには、被告車の運行に関し、何らの注意義務違反もなく、被告車には、構造上の欠陥又は機能の障害もなかつた。

本件事故現場は南北に通ずる道路と西方に通ずる道路とが交差する三又交差点で、信号機が設置されている。交差点の北西角は二階建の建物があり、南進中の車両から西方(右方)への見通しは悪く、信号機の表示に従つて進行するしか仕様のない状況にある。

被告車は営業用の大型乗合バスであるが、南北道路を南進し、右交差点では対面赤信号のため先行する前車三台に続いて一旦停止し、青信号に変つた後に先行車に続いて発進し、交差点の中央付近を時速約二〇キロメートル(制限速度時速三〇キロメートル)で南進していたところ、豊運転の小田車が、西方道路から、対面信号が赤色を表示しているにもかかわらず、信号待ちのために停止している他の車両の右側を追い抜いて、交差点に西から南へ右折すべく進入し、被告車の右側ボデイー下部に接触したものである。

本件事故現場の見通しは前記のとおり悪く、被告加藤は信号機の青色表示に従つて走行していたのであつて、被告加藤にとつては回避不可能な事故である。

2  過失相殺

仮に、被告らに何らかの過失があるとしても、本件事故は豊の過失行為に帰因するものであり、十分なる過失相殺がなされるべきである。

四  抗弁に対する認否

抗弁は争う。

第三証拠〔略〕

理由

一  事故の発生

請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

二  帰責事由

1  本件事故現場付近の状況その他

成立に争いのない甲第一三号証、乙第一ないし第三号証、第五号証の一、二、第七号証、本件事故現場の写真であることに争いのない検甲第一ないし第三号証、検乙第一ないし第一五号証、弁論の全趣旨によれば、左のとおり認められる。

(一)  本件事故現場は、南北に通ずる制限速度三〇キロメートル毎時の見とおしのよい直線道路(以下南北道路という)とこれに西方から達する道路(以下西方道路という)とが交差するT字型の信号機の設置された交差点(南太子堂一丁目交差点、以下本件交差点という)であり、南北道路は右交差点の北方で北行車線幅員約三・〇メートル、南行車線の幅員約二・七メートル、両路側帯の幅員各約〇・七メートル、合計幅員約七・一メートルで、西方道路は東行車線の幅員約三・二メートル、西行車線の幅員約三・〇メートル、両路側帯の幅員各〇・七メートル、合計幅員約七・六メートルで、右交差点北西角には道路に接して工場建物が建てられており、南北道路の北方から西方道路への見とおし及び西方道路から南北道路の北方への見とおしはいずれも妨げられていること。

(二)  南北道路に沿つて本件交差点の北方約四〇〇メートルのところ信号機の設置された太子堂交差点が存し、北方約一〇四・七メートルのところには信号機の設置された太子堂南交差点が存し、本件交差点の信号機と太子堂南交差点のそれとは同一同期の連動による親子信号機で、太子堂南交差点の信号の変化に二秒遅れて本件交差点の信号が作動する仕組みになつており、一周期は五八秒で、南北方向の信号は青二八秒、黄三秒、赤二七秒(前後各二秒は東西方向の信号とも全赤)であること。

(三)  太子堂南交差点の南北には東西に渡る幅員約四メートルの横断歩道が存し、その北側横断歩道の南側端から南側横断歩道の北側端までの距離は約一二メートルで、南側横断歩道の南側端から南へ本件交差点の北側停止線までの距離は約八一メートルであり、本件交差点の南北にも東西に渡る幅員約四メートルの横断歩道が存し、右停止線からその北側横断歩道の北側端までの距離は五・三メートルで、その北側横断歩道の南側端から南側横断歩道の北側端までの距離は約八・七メートルであり、太子堂南交差点の中央から本件交差点の中央までの距離は約一〇四・七メートルであること。

(四)  本件事故現場の事両の通行状況は、事故直後に行われた実況見分時(昭和五五年六月一四日午前八時一五分から午前九時〇分まで)には、三分間に南北方向六四台、東西方向一二台であつたこと。

(五)  被告車は、乗車定員八八名のバスであり、車高三・〇五メートル、車幅二・四五メートル、車長一一・一二メートルであり、小田車は車高一メートル、車幅〇・七三メートル、車長一・七八メートルであること。

(六)  被告車と小田車は、交差点ほぼ中央で被告車の右側面と小田車の左側面が接触し、接触後南へ約八・五メートル並進したのち、小田車が転倒し、豊が被告車の右後輪で轢過されたこと、事故後の見分によると、被告車の右前輪付近から右側面中央付近にかけて、車体に擦過痕、払拭痕、ゴム状の付着等が存し、右前輪右側面にも擦過痕が存し、小田車は左ハンドルが右ハンドルよりも〇・〇六メートル低くなり、左側面に擦過痕、油付着等が存したこと。

以上のとおり認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。

2  被告加藤の責任について

原告らは、請求原因2(一)のように、本件交差点に、豊運転の小田車は青で進入し、被告加藤運転の被告車は赤で進入した旨主張するけれども、本件全証拠によつてもこれを認めるに足りない。

もつとも、証人徳山晴三及び同樋口泉は、被告車も小田車も本件交差点に赤で進入した趣旨の供述をしている。

すなわち、徳山証人は、昭和五六年九月三日の証人尋問において次のように供述している。単車(以下徳山車という)で南北道路を南進し、本件交差点の二つ手前の太子堂交差点で信号まちのため先頭に停止していた被告車(被告車は事故時まで終始先頭を走行)の後方二、三メートルに停止(このとき樋口証人運転の単車も停止していた)し、青信号で発進した被告車の後方約三メートルを追随進行し、太子堂南交差点では対面青信号に従つて被告車はそのまま通過した、徳山車も続いて進行し、同車が右交差点の中央付近に達した際対面信号は黄色に変化したが、そのまま通過した、被告車が本件交差点手前約三五メートルに達した時、同交差点の対面青信号が黄信号に変化したのに、被告車は加速し、時速約三〇キロメートル(徳山車と同様の速度)で進行し、同交差点手前の一時停止線直前に達したころ、対面黄信号が赤信号に変化したが、そのまま交差点に進入した、そのとき交差点内に西からきた小田車が低速で進入し、右折しようとふらふらしているところへ、被告車が前方のリヤカーを避けるため右にハンドルを切つて中央線を越え、その単車と接触した、双方赤信号で本件交差点に進入した、徳山車は交差点手前の一時停止線手前中央線寄りに停止し、樋口証人運転の単車も並んで停止し、両名で事故を目撃した、両名で即死したとか早かつたとか信号は守らなければなどと話をした、樋口とは事故前面識はなかつた原告ら側とも面識はなかつた、事故後二、三日して、原告ら側で目撃者を探していると聞いて名乗り出た、その後、被告車が赤信号が黄から赤に変わつたのに本件交差点に進入した旨記載した書面(甲第四号証)に署名を求められてこれに応じた、原告ら側から警察に行つてくれと言われたことはない、以上の趣旨を供述している。

次に、樋口証人は、昭和五六年一二月一〇日の証人尋問において次のように供述している。単車(以下樋口車という)で南北道路を南進し、太子堂交差点で信号まちのため停止していた被告車の後方に停止し、青信号で発進し、被告車の後方約三〇メートルを追随していた、被告車の後方約一五メートルを徳山車が同様走行しており、徳山車は中央線寄りを、樋口車は左寄りを走行していた、太子堂南交差点では全車青信号で通過した(この点について、樋口証人は、当初原被告ら双方の代理人の質問に青信号で通過したと供述し、次に被告ら代理人が徳山車の通過中に青から黄信号に変化した旨の徳山証言を挙げてさらに質問したのに対し、樋口車の通過中青から黄信号になつたかも知れないと供述したものの、すぐに、青で交差点に入り、青で出たと思う旨供述をひるがえし、その後の原告ら代理人の質問に対しては、交差点に入る時青信号であるのを見たが、出るときは青かどうかわからない旨さらに供述を変えている)、被告車の前方に先行車はあつたと思うが車種はわからない、樋口車が本件交差点手前の一時停止線手前約四、五〇メートル(被告車が右停止線の手前約一、二〇メートル)に来たとき、本件交差点の対面青信号が黄信号に変わり、被告車が停止線上付近に達したとき黄から赤信号に変わつたが、被告車は時速約三五キロメートル(樋口証人がいつも走る速度と同程度の速度)で交差点に進入した、被告車は中央線寄りを走つていたが、右にハンドルを切つたかどうかわからない、そこへ交差点の西方から小田車が右折進入してきて、交差点中央付近で被告車に接触した、双方とも赤信号で交差点に進入したと思う、樋口車は停止線前に停止し、隣に徳山車が停止していた、徳山は、即死でしような、バスにも過失があつたねなどと言つていた、徳山とは話をしたことはなかつたが通勤時に挨拶をする程度であつた、原告らとは面識はなかつた、事故後警察に目撃の事実を申告したことはないが、匿名で豊の義兄の坂口に手紙を出し、その後徳山が勤め先に来て豊の遺族が困つているので話してあげてくれというので、原告らに名乗り出た、匿名で手紙を書いたのは、仕事を休んだり、ややこしいことに巻き込まれるのが嫌だからである、坂口から自賠責保険がおりないので見たままを書いてくれと言われて、樋口車が被告車の後方一五メートル位を進行中、被告車が本件交差点の信号が黄から赤に変わる時に停止線に入つた旨記載した書面(甲第五号証)を作成した、以上の趣旨を供述している。

しかしながら、他方、被告加藤本人尋問の結果によれば、本件交差点に、被告車は青信号で進入し、小田車が赤信号で進入してきた旨供述し、証人岩崎善一の証言もこれに沿うのである。

被告加藤は、その本人尋問において次のように供述している。すなわち、被告加藤は、被告会社のバス路線である近鉄八尾駅前=近鉄藤井寺駅前間を被告車を運転して業務に従事していた、事故当時は八尾駅から藤井寺駅に向かう途中であつた、乗客は五、六〇人乗つており、立つた者も多数いた、南北道路を南進して太子堂交差点に来ると、対面信号は青であつたが、前に右折車が停止しており、それが発進するまで一時停止し、それから直進し、太子堂南交差点に達し、これも対面青信号であつたので止まらず通過した、そのころは先頭を走つており、後続車があつたかどうかはわからない、本件交差点手前約三〇メートルで対面赤信号に従い、すでに停止していた先行車のうしろに停止した、先行車は一〇トン積位の布製幌のかかつた貨物用トラツクで、その前方に一、二台の車両が停止していた、二、三秒停止後前車が発進したので対面信号を見ると青を表示しており、続いて発進した、西方道路の見とおしは建物にさえぎられているので、青信号に従い前方を見ながら、時速約二〇キロメートル位で交差点に進入した、中央付近をすぎて南側横断歩道付近に来たとき石をはねたようなコツンという音がしたので、右のバツクミラーを見ると単車が並進している感じであり、それから軽くブレーキをかけたが、さらに何かに乗り上げた感じがあつたので、強くブレーキをかけた、停止後人が倒れているので、救急車と警察に電話し、乗客に対して、事故の報告、けがの有無の問い合わせ、事故を見ていた人はいないか等の車内放送をしたところ、岩崎という人が目撃したと名乗り出て、「自分の乗つているあたりに単車がぶつかつて来た、単車は信号が赤なのに突込んで来て、あんな無茶なことをしてはあかん」と言つていた、そのとき岩崎の住所などを手帳にひかえた(乙第四号証の一)、交差点内では直進しており、進路前方にリヤカーはなかつた、以上の趣旨を供述している。

また、証人岩崎善一はその証人尋問の際次のように供述している。すなわち、事故当日、被告車に乗車して出勤途中であり、右側の前から二番目の座席に座つていた、被告車の乗客は多く、立つている人が大分いた、太子堂交差点及び太子堂南交差点のいずれの対面信号も記憶がない、被告車は本件交差点まで普通に走つて来て先行車に続いて停止した、止つたとき顔を上げて先行車が普通乗用車であるのを見た、ただし、同証人の席は低くなつているので前方は見にくい、信号は見ていない、しかし信号待ちだと思つた、一分間位(とにかく短い時間)停止していた後、被告車が普通に発進したが、右後方でがちやんとかなり大きな音がした、音がしたのは交差点中央より少し北寄りのところで、そのときの被告車の速度はロー発進していたのでそんなに出ていないと思う、音がしてブレーキがかけられたが、急ブレーキではない、停止して窓をあけて見てはじめて単車があたつたことを知つた、運転手から誰か目撃した人はいないかと問い合わせがあり、あたつた瞬間は見ていないがということで名乗り出た、運転手に対し、「単車が赤信号なのに突込んできた、無茶しよる、自分の席のあたりに単車があたつてきた」などと言つたことはない(言つたかどうかとにかく記憶がない)、リヤカーの記憶はない、事故後四、五日して警察官が家に来て供述調書をとつた、そのときは現在よりも記憶が確かであつた、以上の趣旨を供述している。

以上のように、徳山証言及び樋口証言と、被告加藤供述及び岩崎証言とは、全く相違している。

ところで、成立に争いのない乙第一、第六号証、被告加藤本人尋問の結果及び証人岩崎善一の証言、これらにより成立の認められる乙第四号証の一、二によれば、被告車は被告会社の路線バス(近鉄八尾駅前から近鉄藤井寺駅前間)であり、本件事故発生時は通勤時間帯で、五、六〇人の乗客が乗車しており、事故直後、被告加藤は乗客に対し、目撃者がいるかどうか確認し、岩崎善一が名乗り出たこと、事故後まもなく(発生時刻午前七時五九分、実況見分開始時刻午前八時一五分)実況見分が開始され、被告加藤は警察官に対し、事故直前、本件交差点内の衝突地点から北へ約三七メートルの地点で信号待ちの後発進し、交差点ほぼ中央で被告車右側面に衝撃を感じ、約七メートル進行した地点で右後方をバツクミラーを見たとき倒れかけた小田車を発見し、約三・三メートル進行した地点でブレーキをかけ、さらに約一〇メートル進行して停止した旨指示説明し、実況見分調書が作成されたこと、本件事故の五日後である昭和五五年六月一九日には、警察官が岩崎方を訪れ、事情聴取を行い、同人は次のとおり供述したこと、すなわち、同人は事故当日出勤のため被告車に乗客として乗車し、右側の前から三つ目の座席に着いた、被告車は太子堂交差点にさしかかつたが、運転手は他の車両が無理に交差点を進行してゆくのを見ても無理はせず、慎重な運転をしていた、この交差点を過ぎたあたりから車両の流れがスムーズになり、流れにそつて進行して本件交差点をさしかかつた、すると先行車が停止したのか被告車も続いてゆつくりと一時停車したので、信号が赤で停車したことがわかつた、停車した地点ははつきりわからないが、前から数台後方であつたと思う、停車していた時間ははつきりわからないが、当時車両の停滞もなく、停車時間から考えて被告車は先行車に続いて信号待ちをしていたことは確かである、そして、対面信号が青に変わつたのか被告車もゆつくり発進し、時速約二〇キロメートル位で本件交差点に進入したと思う、このとき、右側の西の道路から一瞬見た感じでは被告車に向かう様にして出て来るヘルメツトをかぶつていない単車乗りがあるのが見えたので、あつ危い、青信号やのに出て来て、と瞬間思つたが、単車はそのまま被告車にぶつかつて、被告車は停止した、単車は瞬間的に見たので、西側道路のどのあたりから出て来たのかわからないし、西側に他車が止まつていたかもわからない、このときのバスの乗客ははつきりしないが四、五〇人位と思う、運転手に自分の住所や名前等を教えて被告車から降りた、運転手とも被害者とも全く面識はなかつた、このように供述したこと、以上のとおり認められ、右認定を左右する証拠はない。

右認定によれば、前記被告加藤本人尋問の結果と本件事故直後の実況見分の際の指示説明とはほぼ一致しており、その指示説明自体事故直後であり、被告車には乗客が五〇人位おりそのなかから目撃者が名乗り出てまもなく現場においてなされていること、前記法廷での岩崎証言と事故後まもない捜査段階での供述とは、本件交差点手前で被告車が停止後先行車に続いて発進したことや右停止は信号待ちと思つていたことなどの趣旨において一致しており、この点は前記被告加藤の供述にほぼ沿うものであることが明らかである。

これに対し、徳山証言及び樋口証言は、太子堂交差点から太子堂南交差点を経て本件交差点に至る車両の進行経緯や本件交差点への進入の状況等に関して、基本的に一致しているところ、いずれも本法廷において始めて供述したもので、従前捜査機関に対しては何ら申し出ていないのである。そして、それぞれ事故後まもなく原告ら側の者らと接触した旨自認しており、樋口証言では自賠責保険金受給のために右供述内容と同様の事故状況を記載した書面(甲第五号証)を作成した旨(徳山証言でも目的は不明であるが同様書面(甲第四号証)を作成した旨)自認しているうえ、証人坂口三郎は、本法廷において、同証人は豊の義兄で同人の勤める株式会社タミヤの社長をしているところ、本件事故の翌日から事故の目撃者探しのためのビラを作成して現場付近で配付貼付するなどした、警察にまかせなかつたのは、被告会社は組織が大きいし、警察とグルになつて、まるめこまれると危惧を抱いたからである、黒川、樋口、徳山の順で目撃したとの連絡があつた、警察にはこれらの目撃者がいることを申し出たり同行したりしていない、その理由は証人を消されると思つたからである、被告加藤の不起訴処分後に目撃者がいるとだけは言いに行つた、その担当官はわからない、以上の趣旨を供述しているが、証人坂口の被告会社と警察に対する態度はまことに異様不可解というほかなく、むしろ、その証言どおりすれば証拠を隠匿したに等しく、最終的に被告加藤が不起訴処分となつたのにこれを放置しておくなど、証人坂口の言動には全く理解に苦しむ部分が多い。

しかも、目撃者と自認する徳山証言自体にも、次のような疑問点が存する。徳山証人は、前記のとおり、被告車の後方約三メートルを追随進行し、太子堂南交差点を通過するにあたり、徳山車が同交差点の中央付近に達した際、対面信号が青から黄に変化し、そのまま進行して本件交差点手前約三五メートルに被告車が達したとき、本件交差点の対面青信号が黄信号に変化したのに、被告車は加速し、時速約三〇キロメートルで進行し、同交差点手前の一時停止線に達したころ、対面黄信号が赤に変化したが、そのまま同交差点に進入した旨述べている。

しかしながら、前記1認定の太子堂南交差点と本件交差点との間の距離関係、両交差点の信号の周期と連動の状況、被告車の車長等に照らすと、右徳山証言のように右両交差点間を走行することは物理的に不可能である。すなわち、徳山証言のとおり徳山車が太子堂南交差点中央付近で対面青信号が黄に変化したとすれば、その時点での被告車の前部は右交差点中央から約一四ないし一六メートル南方に位置する(被告車の車長一一・一二メートル、被告車と徳山車の距離三メートルに多少の誤差を考慮する)ことになり、被告車が時速約三〇キロメートル(徳山証人は本件交差点で加速して約三〇キロメートルというが、この際計算の便宜のため三〇キロメートルを前提とする)としても、その二秒後には約一六・六六メートル進行するにすぎず、太子堂南交差点の信号に二秒遅れて連動する本件交差点の信号が黄信号になつた時点での被告車の前部は、太子堂南交差点の中央から約三〇・六六ないし三二・六六メートル南(本件交差点北側の一時停止線から約五八・三四ないし六〇・三四メートル北)に位置し、さらに本件交差点の信号が赤に変化するその三秒後には約二四・九九メートル進行するので、太子堂南交差点中央から約五五・六五メートルないし五七・六五メートル南(前記一時停止線から約三三・三五ないし三五・三五メートル北)に位置し、右一時停止線(太子堂南交差点中央から約九一メートル南に存する)には到底達し得ないのである(ちなみに、右赤変の時点での被告車の位置からすると、被告車が本件交差点の南側横断歩道を通過し去るまでには、さらに約六六・四七ないし六八・四七メートル(一時停止線までの距離に一時停止線から右交差点南側横断歩道南側端までの距離約二二メートルを加算し、さらに被告車の車長一一・一二メートルを加算して得た数値)を進行しなければならないことになる)。

もつとも、徳山証言の後になされた樋口証言においては、前記のとおり、樋口車が被告車の後方約三〇メートルを、徳山車が被告車の後方約一五メートルを追随進行し、被告車の速度が時速約三五キロメートルであつたとの供述部分も存するので、これを前提に被告車の進行状況を再度試算するに(ただし、樋口車と被告車の距離については、証人樋口作成という甲第五号証には約一五メートルとあり、車間距離の関係はあいまいであるが、一応証拠にあらわれた最大の数値として、右証言の数値を試算上の前提としておく)、太子堂南交差点の南北方向の信号が青から黄に変化した時点での被告車の前部は、右交差点中央から約二六ないし二八メートル南に位置する(被告車の車長及び徳山車と被告車間の距離に多少の誤差を考慮する)こととなり、その二秒後には被告車は約一九・四四メートル進行するので、本件交差点の南北信号が青から黄になつた時点での被告車の前部は、太子堂南交差点の中央から約四五・四四ないし四七四四メートル南(本件交差点北側の一時停止線から約四三・五六ないし四五・五六メートル北)に位置し、さらに本件交差点の信号が赤に変化するその三秒後には約二九・一六メートル進行するので、太子堂南交差点中央から約七四・六〇ないし七六・六〇メートル南(前記一時停止線から約一四・四〇ないし一六・四〇メートル北)に位置し、前同様右一時停止線には到底達し得ないのである(ちなみに、右赤変時の被告車の位置から本件交差点を被告車が通過し去るまでには、前同様の計算方法により、さらに約四七・五二ないし四九・五二メートル進行しなければならないことになる)。

また、樋口証言においては、太子堂南交差点の信号の点について、一応青であつたことは供述するものの、前記のとおり、右交差点を出るときは黄かもしれないと供述してみたり、あいまいである。交差点を出るときも青であつたというのであれば、先行する徳山車が黄で後続の樋口車が青ということはあり得ず、徳山証言と樋口証言は明らかに矛盾するし、交差点を出るときに黄だつたとすれば、徳山車とこれに後続する樋口車との車間距離はきわめて接近していたこととなり、被告車と徳山車の距離約一五メートル、徳山車と樋口車の距離約一五メートルとする樋口証言も前提の一部を欠いて、右数値を根拠として計算した前記走行状態の可能性すらもあやしくなつてくる。

以上のように、被告加藤の本件事故直後の実況見分の際の指示説明と本法廷での供述とがほぼ一致しており、証人岩崎についても、事故後まもない警察官に対する供述と本法廷での供述も、本件交差点手前で被告車が停止し、発進後まもなく事故が発生したとの点で一致し、これは被告加藤の供述に沿うものであること、右事故当時被告車には乗客が約五〇人乗車しており、その一人である岩崎が目撃者として名乗り出てまもなく実況見分が行われているなど容易に虚偽の介入し難い時期と状況下において被告加藤の指示説明がなされていること、他方、右被告加藤供述などと明らかに齟齬する徳山証言及び樋口証言は、事故後長時間経過した後本法廷で述べられたもので、捜査機関に申出たこともなく、その間、原告ら側の者らとの接触の事実がうかがわれ、徳山証言自体物理的矛盾点を含み、樋口証言はほぼこれに沿ううえに、豊の義兄にあたる証人坂口の証言に証人隠匿にも等しい不審不可解ともいうべき供述内容が認められること、このような事情からすると、到底徳山証言及び樋口証言は信用し難いものというほかなく、被告加藤の供述ないし岩崎証言の方を信用すべきである。

もつとも、岩崎の法廷証言と捜査段階の供述との間にも、座つていた席が右側の二番目か三番目か、衝突時に小田車を現実に見たかどうか等の点でくいちがいが見られるが、この点については、岩崎証人自身が、証人尋問の際、現在(昭和五七年二月二三日)よりも警察官に供述したときの方が記憶が確かであつた旨述べており、時間の経過による記憶内容の変容喪失の類とみることができ、また、岩崎証言では先行車が普通乗用車であつたとするのに対し、被告加藤の供述ではトラツクであつたとする点でもくいちがいが存するけれども、岩崎は捜査段階では先行車の種別については述べておらず、法廷証言の際もこの質問に対しては岩崎の座席が低く前方は見にくい点を指摘していることなどからすると、むしろ先行車の種別については運転席の被告加藤の供述を採るべきであり、右相違点をもつて、停車時の先行車の存在自体が否定されるものとも認め離い。

なお、被告加藤の本人尋問の結果中には、太子堂南交差点を青信号で通過し、本件交差点手前約三〇メートルで先行車の後に停止し、二、三秒後に前車が発進したので対面信号をみると青を表示していたとの供述部分が存するけれども、前記1(二)、(三)認定のような本件交差点と太子堂南交差点間の距離、信号の連動の状況からすると、被告車が太子堂南交差点通過後まもなくその信号は青から黄、そして赤に変化し、本件交差点の信号に連動したことになり、被告車の停車時間が二、三秒というのは、正確な意味にとるとすれば、被告車の停車前の速度や停車の仕方にもよるが、いささか短かすぎるものといいうる。もつとも、岩崎証言によつても右停車時間は一分間位(赤信号は二七秒であるからこれは長すぎる)と言つてみたり、とにかく短い時間と言つてみたりしており、同人の事故後まもない警察官に対する供述では、停車していた時間ははつきりわからない旨述べるなど明確ではないし、被告加藤の法廷供述が事故後一年半近く経過した後のものであることからすると、かような秒単位の時間の幅の記憶が必ずしも正確ではあり得ず、その記憶も往々にして変容し得ることは経験則上容易に認められるところであるし、被告車はゆつくりと一時停車したとの岩崎の警察官に対する供述からみて、完全に停止していた時間が比較的短く感じられたとも考えうるので、右二、三秒との供述部分は、前後の供述部分からしてもその言葉どおりの意味とは解し難く、ごく短時間という程度の趣旨と解すべきであり、右供述部分の存在をもつて、被告加藤本人尋問の結果自体の信用性が左右されるものとも認め難い。

以上のとおりであるから、本件事故時の状況については、成立に争いのない乙第一、第六号証、証人岩崎善一の証言(一部)、被告加藤本人尋問の結果(一部)、弁論の全趣旨によつて、左のとおり認めることができる。すなわち、被告加藤は、被告会社の路線バスの運転手として被告車を運転し、立つている乗客を含め約五〇人を乗車させて、南北道路を北から南へ進行し、太子堂南交差点の対面青信号に従い同交差点を通過し、さらに南進したところ、本件交差点手前に対面赤信号に従い先行車二、三台が停止していたので、布製幌のかかつたトラツクの後方(後記衝突地点から北へ約三七メートルの地点)に停止し、まもなく発進した先行車に続いて発進し、対面青信号に従つて本件交差点に時速約二〇キロメートルで進入しその中央付近に達した際、おりから西方道路から本件交差点に右折南進してきた豊運転の小田車が、その左側面を被告車右側面に接触させ、石をはねたようなコツンという音を聞いた被告加藤が右後方をバツクミラーで見て小田車を発見し(その位置は接触地点から南へ約七メートル)、軽くブレーキをかけた(その位置はさらに南へ約三・三メートル)のち、被告車が何かに乗りあげた感じがしたので強くブレーキをかけて停止した(その位置はさらに南へ約一〇メートル)こと、以上のとおり認められ、右認定に反する徳山証言及び樋口証言、甲第四、第五号証は前記の理由で信用できず、岩崎証言及び被告加藤の供述中右認定に反する部分も同様採用し難く、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

右認定事実によれば、本件交差点に赤信号で進入したのは小田車であつて、原告ら主張のように、被告加藤に赤信号無視の過失はないものといわなければならない。

なお、被告車が時速約二〇キロメートルで本件交差点に進入し、小田車と接触してから被告加藤がバツクミラーで小田車を発見するまで約七メートル進行し、さらに約三・三メートル進行して軽くブレーキをかけ、結局停止するまでさらに約一〇メートル進行していることについては、本件事故当時被告車の対面信号が青であり、事故の態様が交差点に進入した被告車の右側面に右折してきた小田車が並進接触するというもので、被告車の運転席にいた被告加藤にとつては右後方で発生し、被告車は当時立つている者を含め約五〇人の乗客が乗車しており、容易に急制動をかけ難い状況にあつたことなどからすると、右接触後停止までの被告加藤の処置をもつて何らかの過失ありとまでは評価し難い。

従つて、被告加藤は民法七〇九条の責任を負うものとは認められない。

3  被告会社の責任について

被告会社が被告車を保有していることは当事者間に争いがない。

本件事故が豊の過失によるものであり、被告加藤に過失のなかつたことは、前記2のとおりであるほか、成立に争いのない乙第二号証、被告加藤本人尋問の結果によれば、被告加藤は昭和四二年に普通運転免許をとり、昭和五四年九月から被告会社に勤務し、本件事故以前に人身事故をおこしたことはなかつたこと、本件事故当日は午前六時三〇分に出社し、いつものようにブレーキ、オイルその他の始業点検を行い、異常がなかつたので、午前七時に乗務を開始したこと、本件事故後の被告車の実況見分の際にも、エンジンブレーキ等に異常は認められなかつたこと、以上の事実が認められ、右認定を左右する証拠はないところ、右事実によれば、被告らは被告車の運行に開し注意を怠つておらず、被告車に構造上の欠陥又は機能の障害もなかつたというべきである。

従つて、被告会社は自賠法三条但書により本件事故の損害賠償の責を負わない。

なお、被告加藤が被告会社の従業員であることは当事者間に争いがないけれども、前記2のとおり被告加藤に過失がない以上、被告会社は民法七一五条の責を負わない。

三  結論

よつて、原告らの本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないから棄却し、訴訟費用の負担について民訴法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 矢延正平)

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